那智の瀧 余聞
これからお話する話は本人から聞いたことのある人には多少の違いがあるかもしれないけれど、悲しいかなもうそのことを確かめようが無いし・・・・・さりとて私の記憶が正しいという自信も無い・・・のでその点はお許しいただきたい。
我々ふたりの「那智の瀧」との出会いは 土門拳の撮った「那智の瀧」の写真を使ったカレンダーを観たことに始る・・・ 後年このときに見た数点の写真が本当に土門拳のものであったかどうだったか怪しくなってきた、と言うのは後々雑誌やテレビで土門拳のことが取り上げられても有名な室生寺や平等院あるいは「筑豊のこどもたち」のような写真集のことについては頻繁に出てくるけれど、那智の瀧の写真について触れられることは・・少なくとも私の知る限り・・・・皆無に近く、そもそも土門拳が撮った「那智の瀧」の写真が本当に存在するのだろうか?あるいはカレンダーとして使われるようなことがあったのだろうか?と疑わざるをえなくなって・・・いろいろ調べてみたけれど本人のものだったという確信が得られなくなっていた。
幸い最近はインターネットで調べることができるので、「土門拳と那智の瀧」と検索してみると出版済みの写真集にも収録されていることがわかっきた、そのときのカレンダーの写真が本当に土門拳のものであったかどうかは別として少なくとも土門拳の撮った「那智の瀧」の写真が存在することに内心ホットしている・・・、ともあれそのカレンダーの写真の・・・・とりわけ那智の瀧の滝口を向かって右側からアップで撮った写真をいったいどこから撮ったのか?このような写真を撮ることができる場所が本当にあるのだろうか?一度現地に確かめに行こうということになった。
それからどのくらいの時が経っていたか分からないけれど、そのことは実現しないまま、昭和42年の春3月の末、私はまだ学生で同じクラブの友人と二人で南紀方面を数日間気侭に旅をして、その友人と別れた後、一人で那智の瀧に行こうと新宮に向かう天王寺発の列車に乗っていた。 その途中、紀三井寺の駅のホームに立っている原田を偶然見つけて声をかけると 「それなら俺も那智に行く」という事になった。
原田が生涯のテーマとして那智の瀧を選ぶきっかけとなったかもしれない、この私と原田の那智の瀧への旅は こうして突然始まった。
しかし結局、本来の目的であった土門拳が「どの位置から 滝口を撮ったのか?」というテーマはもうどうでも良くなっていて検分することも忘れていたように思う。今考えてもここから撮ったに違いないと思えるような場所はまるで無く、木に登るか?櫓を組むか?のどちらかしか考えられないように思う。
そのかわりに、ご存知の方も多いと思うけれど、那智の瀧の上流には「二の瀧」・「三の瀧」があってその「二の瀧」・「三の瀧」を見に行くことになって、滝壺のすぐ傍にある飛瀧神社の社務所の横から那智の瀧の滝口まで登り・・・今はとても許されないと思うけれど、その折は那智の瀧の滝口から下を覗くことができた・・・その流れをさかのぼって「二の瀧」を観て・・・最近はネット上で写真や絵で確認ができるけれどほぼ記憶と同じだった・・・ところが「三の瀧」は私の記憶しているものとネット上のものとは違った・・・・「三の瀧」を観るのは途中であきらめたか、違う滝を「三の瀧」と勘違いをしていたかも知れない。
ともあれ、彼の描いた数多くの「那智の瀧」には一筋の那智の瀧しか描いていないけれど、彼の心中では、背後の「二の瀧」や「三の瀧」も含めた立体的な那智の瀧を何時も思い描いていたに違いない。
後々、(あるいはそれ以前からかもしれないけれど) きっかけとなったこの那智の瀧にかぎらず土門拳の写真と原田とは縁が深く かの有名な「古寺巡礼」の室生寺にも何回も出かけたようだ・・・ 私も一度同行して原田に大野寺の弥勒磨崖仏を案内してもらった・・・・ご存知のように彼は酒田にある 土門拳記念館にも出かけている。
結果的に私は今日に至ってもたいした答えを手に入れることはできないでいるけれど、原田が描いた絵一枚一枚には柳田國男の「遠野物語」、土門拳の写真、黒澤明や山田洋次の映画、司馬遼太郎の著作の根底となっている「日本人とは何か」というテーマの彼なりの答えが描かれているはずで、とりわけ、那智の瀧の絵には「日本人を日本人たらしめている何か」が描かれているはずですが、さて皆さんはどう思われるでしょうか?