「原田脩記念 ギャラリー稲童」設立趣意書
この度、行橋市稲童赤迫に「原田脩記念 ギャラリー稲童」を開設する運びとなりました。原田脩の画業を広く知っていただき、併せて地域の文化活動を支える拠点と致したい所存です。このギャラリーを運営するために皆様にご協力いただきたく、「ギャラリー稲童協力会」を設け広く会員を募集いたします。
【設立趣意及びこれまでの経過】
月、瀧、寺と酒をこよなく愛した旅する絵描き、原田脩が亡くなって早や4年。1800人もの人が足を運んでくれた遺作展からもう3年経ちます。
原田脩作品集のあとがきに「原田は終始権威的なものを嫌い、画壇や公募展には一切目を向けなかった。己の絵一筋、旅と酒と素朴な人々を愛する独行人であった。」とありますが、本当に心優しい、愛すべき絵描きでした。今でも
「よ!久しぶり」とリュックに下駄履きでふらっと現れてくるような気がしてなりません。
原田脩は公募展などに出品することはありませんでしたが、1979年から約30年にわたって毎秋、京都の射手座画廊で個展を開催しました。この展覧会は絵を売るためではなく、自分に課した絵描きとしての1年毎の総括でした。個展には決まって50号の大型作品を何点か展示し、その年の成果を私達に示してくれました。真っ赤な滝が出現したり、逆に画面全体が真っ白な滝も登場しました。こうした大型作品は50点以上に上ります。また、描き溜めたスケッチも3000枚以上残されました。
遺作展打ち上げパーティーの折に、この多くの遺作を常設展示するギャラリーを作りたいと申し上げました。場所を原田脩の出身地である行橋新田原地区に定め、ギャラリー用地を捜し求めました。あちこち歩き回って、日豊線新田原駅から歩いて15分の山の麓に、これはと思える土地を見つけました。原田脩の眠る奥津城まで1.5キロ。遠く周防灘も見渡せます。当初は100坪程度でしたが、紆余曲折を経て300坪近い用地が入手できました。
設計は、小倉高校美術部OB城水さんの「洋建築計画事務所」にお願い致しました。用地の地質調査も終わり、井戸を掘って水源も確保しました。施工は土地探しを含めて、親身にご協力いただいた友人の宮崎さんの「株式会社かんり」にお願いし、この3月に着工、5月末の完成を目指しています。
発案よりこれまでの間、下記の賛同者・発起人による運営委員会で様々な事柄を協議し、次のような基本方針を決めました。また、建築の進行に併せ、ギャラリー運営のために、「ギャラリー稲童協力会」を設け、広く賛同者を募ることと致します。
以上